芋を洗う
心に響いた一節を紹介します
(前段略)若者が二本の丸太棒でヨイショヨイショとかきまわす。その力に押されて、芋は上から下へ下から上、そして右に左にと移動して、大芋小芋とりどりの姿が、現れては消え、消えては現れてくる。
上にあるものとても、いつまでも上にいるとはかぎらない。また下の芋も、いつまでも下積みでいるとはかぎらない。やがては上にあがってくる。下におりてくる。
なんだか人生の縮図みたいである。人の歩みには大なり小なり浮沈がつきまとう。上がりっ放しもなければ、下がりっ放しもない。上がり下がりのくりかえしのうちに、人は洗われみがかれてゆくのである。だから、たまたま上にいたので、おごることは少しもないし、下にいたので悲観する必要もない。要は、いつも素直に、謙虚に、そして朗らかに希望を持って歩むことである。
おごりの気持ちや悲観の心が出てきたとき、芋洗いの姿を思い出すのも、また何かの役に立つであろう。
道をひらく 松下幸之助
芋洗いというと、夏のプールの混雑を比喩する言葉として聞くが、こと都会では芋を洗う光景はほとんど目にすることができない。
人の浮沈は必ずあり、その中で磨かれ成長していくのだ。そのためにはいつも素直に、謙虚に、朗らかでいることが大事。感じたのは、かきまわす力が外的なものか、内的なものか、いずれ力が必要である。自らかきまわすことも必要だし、かきまわされたときに上に上がる浮力を身に着けておかなければならない。普段の何気ない光景も学びとする翁の視点にまた一つ学びを得た。