商売の尊さ
心に響いた一節を紹介します。
長い人生、迷わずに歩むということは、なかなか容易ではない。その迷いの人生に、ひとすじの光明を与え、心ゆたかに生きる喜びを与えるのが、いわば宗教というもので、過去の歴史においても、人を救い、世を浄化し、そして数々のゆたかな精神文化を生み出してきた。
(中略)
まことに宗教は尊い。だがしかし考えてみれば、商売というものもこの宗教に一脈相通ずるものがあるのではなかろうか。商売というものは、暮らしを高め、日々をゆたかに便利にするために、世間の人が求めているものを精いっぱいのサービスをこめて提供してゆくのである。だからこそ、それが不当な値段でないかぎり、人びとに喜んで受け入れられ、それにふさわしい報酬も得られるはずである。
それを、心ならずも値切られて、正当な報酬も得られないままに苦しむということであれば、これははたしてどこに原因があるのであろう。
おたがいに、宗教の尊さとともに商売の尊さというものについても、今一度の反省を加えてみたいものである。
松下幸之助 道をひらく
これが書かれたのは、松下・ダイエー戦争の真っただ中であった1968年である。定価で売ることで適正な利潤を得、世間が潤うとした松下幸之助氏と、販売価格は小売りが決めると頑なに譲らなかった中内功氏両巨頭のわだかまりは、30年戦争と言われるほど苛烈なものであった。その中内氏にあてた、言葉として読み取ってしまう。
サービスを提供する側が適正な利潤を得ることは、そうあるべきと考えるが、一方で資本主義の原則としての競争原理、価格の変動は供給側にも受け入れる必要性はあろう。
そんなことを考えさせられた。